寒くなってきたので。
こういう寒い時には粕汁が食べたくなります。
いや今日の夜ごはんは貰ってきた鮭のフライと水菜のおひたしと豆腐とモズクのスープをつくりましたが。
高校に入ったら「お前はもう高校生なんだから弁当くらい自分で作れ」と云われたので仕方なく自分で毎日弁当作ってました(母親は給食日と弁当日があり、弁当日には残ったおかずをちょこっとたまにわけてくれましたが)。如何に短時間で弁当が作れるかが重要でした。睡眠確保の為に。特別なひねりもなくウィンナーはウィンナー1本どーんみたいなある意味豪快な弁当でしたが。
きっと今作るとしても面倒臭いのでそんな感じです(今昼ごはんは職場で出る)。
いや私そもそも「たこさんウィンナーとかカニさんウィンナーとかかわいそうで食べられなかった」と幼稚園から食べずに残して持ち帰ってきて母親に「アホかお前は勿体無いことをして!」と怒られていた変わった子でしたから。どうぶつビスケットとかコアラのマーチとか食べられませんから。
で。何が云いたかったんでしたっけ。
同じクラスのAちゃんはお母さんが弁当を作ってくれてたそうな。ええのぅ(方言)と思いながら中を覗くとおかずはきつねいろ一色でした。冷凍食品(といえばフライものが主流だった)のオンパレード(ある意味凄ぇ)。しかもそれは月曜日から金曜日まで毎日続くのでした。むつごい……(方言)。
野菜がないよ。約15年前の話しです。冷凍食品がポピュラーになりかけていろいろ種類が出てきた頃だったのかな。家では「冷凍食品は高いから」とそういうのは絶対買ってくれませんでしたが。今でこそいろいろな、それこそありとあらゆると云うくらい沢山の種類の冷凍食品がありますが以前はそうだったなーと。
最近ある幼稚園のお弁当の日の園児のお弁当の中身は野菜が入ってないことが多い、そうです。入れても食べないから、最初から入れない。好きなものしか入れない。たまに、お母さんが嫌いな食べ物は食卓にさえのぼらないから食べたことがない、という場合もあるそうな。
いただきますと手をあわせるのはその材料を作ってくれた農家の人に、或いはとってくれた漁師さんに、牧場の人に、調理をしてくれた人に、その食べ物に、感謝の気持ちを表しているのであって、ものを大切にする気持ちがあったら自然と出てくることではないかと思う訳ですが。勿論最初のしつけの段階でこれこれこういうことなのよという諭しが大事だとは思いますが。
何もかもが使い捨てになってそういう気持ちまでもが何処かに行ってしまってる気がする。
このまま何処に向かって行くのかな。
育むという事が如何に難しいか。
妙な話になってしまいました。
CD届いた。
・スネオヘアー「悲しみロックフェスティバル」
・the castanets「Through」
・merry X’smap〜虎とライオンと五人の男〜(DVD)
何でスネオヘアーのCDが売ってなかったんだろうか。
こういう寒い時には粕汁が食べたくなります。
いや今日の夜ごはんは貰ってきた鮭のフライと水菜のおひたしと豆腐とモズクのスープをつくりましたが。
高校に入ったら「お前はもう高校生なんだから弁当くらい自分で作れ」と云われたので仕方なく自分で毎日弁当作ってました(母親は給食日と弁当日があり、弁当日には残ったおかずをちょこっとたまにわけてくれましたが)。如何に短時間で弁当が作れるかが重要でした。睡眠確保の為に。特別なひねりもなくウィンナーはウィンナー1本どーんみたいなある意味豪快な弁当でしたが。
きっと今作るとしても面倒臭いのでそんな感じです(今昼ごはんは職場で出る)。
いや私そもそも「たこさんウィンナーとかカニさんウィンナーとかかわいそうで食べられなかった」と幼稚園から食べずに残して持ち帰ってきて母親に「アホかお前は勿体無いことをして!」と怒られていた変わった子でしたから。どうぶつビスケットとかコアラのマーチとか食べられませんから。
で。何が云いたかったんでしたっけ。
同じクラスのAちゃんはお母さんが弁当を作ってくれてたそうな。ええのぅ(方言)と思いながら中を覗くとおかずはきつねいろ一色でした。冷凍食品(といえばフライものが主流だった)のオンパレード(ある意味凄ぇ)。しかもそれは月曜日から金曜日まで毎日続くのでした。むつごい……(方言)。
野菜がないよ。約15年前の話しです。冷凍食品がポピュラーになりかけていろいろ種類が出てきた頃だったのかな。家では「冷凍食品は高いから」とそういうのは絶対買ってくれませんでしたが。今でこそいろいろな、それこそありとあらゆると云うくらい沢山の種類の冷凍食品がありますが以前はそうだったなーと。
最近ある幼稚園のお弁当の日の園児のお弁当の中身は野菜が入ってないことが多い、そうです。入れても食べないから、最初から入れない。好きなものしか入れない。たまに、お母さんが嫌いな食べ物は食卓にさえのぼらないから食べたことがない、という場合もあるそうな。
いただきますと手をあわせるのはその材料を作ってくれた農家の人に、或いはとってくれた漁師さんに、牧場の人に、調理をしてくれた人に、その食べ物に、感謝の気持ちを表しているのであって、ものを大切にする気持ちがあったら自然と出てくることではないかと思う訳ですが。勿論最初のしつけの段階でこれこれこういうことなのよという諭しが大事だとは思いますが。
何もかもが使い捨てになってそういう気持ちまでもが何処かに行ってしまってる気がする。
このまま何処に向かって行くのかな。
育むという事が如何に難しいか。
妙な話になってしまいました。
CD届いた。
・スネオヘアー「悲しみロックフェスティバル」
・the castanets「Through」
・merry X’smap〜虎とライオンと五人の男〜(DVD)
何でスネオヘアーのCDが売ってなかったんだろうか。
コメント
現代都会の生活では生産の現場から切り離されておるから、そういう生活を三代も続けておれば(そして今だいたい三代四代目ぐらいになってるんじゃないですかね)よほどでない限り、食に対して「珍しい・レア感」の驚きを持つことはできても「感謝」の念は薄れるでしょう。
そんで中教審の近くにいる古い方々が食育思想みたいなのをぶちかましはじめたんじゃないですかねえ。
あ、でも世の中の人全てがそう、ドライな人だっていうわけでもないと思います。
とりあえず「俺はなあ、いただきますを声に出さずに飯を食う奴が嫌いなんだよ」(←脅し?)という指導(脅しだよね?)は続けております
今何故そうしないとならないのかがわからなくてもいつか「嗚呼こうだったんだ」とわかる時がくる……といいな。こどもたち。
職場の先輩(40代の2児の母)は小さな頃から都会のマンション育ちで「ピーマンがどういう風になってるのか知らない見たことない」そうで、それを聞いて吃驚したものです。
そうか。今の日本てそうなのか。
そうなんだふーん(と思いました。結構カルチャーショックでした)。
自分が常識と思っててもそれを他の人は非常識と思ってるかもしれない…とはよく云ったもので。